歴史から学ぶマネジメント・大友宗麟

Jun 9th, 2024 lifehack

2024/06/09開催の公開講座「歴史から学ぶマネジメント」講座に参加したのでメモ.

歴史に対するマインドセット

大友宗麟誕生

大友家は小田原の家.蒙古襲来によって九州に派遣された.室町幕府成立後に大内家と深い関係になる.長男として誕生し,異母兄弟7人いたが3人が家督相続時に殺害される.

父義鏡が大内家との関係を清算したがって(一説)宗麟を廃嫡しようとしていた.家臣がこの動きを察知し,義鏡と母子を襲撃(二階崩れの変).その後,宗麟は家督を継ぐことを認めさせた.

私見:当時の動きが非常に詳しく記述されているのでどこまで真相なのかはわからない(詳細過ぎる?).

ザビエルとの出会い

鎖国のイメージがあるが,日本と世界は海路を通じて交流があった.室町時代以前は中国を中心として九州では交易が盛んであった.稲作,金印,文字,鉄砲など.

戦国時代に入り,同時期に大航海時代が訪れたことによりヨーロッパが海外に目を向けて発展を加速させた.日本にも西洋の人間が訪れるようになり,中国以外とも交易を行うこととなった.当時彼らは東南アジア方面から渡ってきたため,南蛮人と呼称された.

当時ルネサンスの動きが加速したが,ヨーロッパの言語で記録された文献が残っていなかった.一方,地中海東岸のイスラム圏でローマやギリシャに関する文献が保管されていたため,活版印刷技術の発展とともに文献が広まった.

ルターが贖宥状の批判(実際はそこまで批判していない)が活版印刷で広まって炎上したことにより,プロテスタントが発足,イエズス会を立ち上げて宣教活動を活発化させ,ザビエルが中国で日本人にあったことにより渡来した.

鹿児島に上陸したザビエルは仏教の高僧と誤解され,島津氏の元を追放される.応仁の乱の後で荒廃ぶりを目にしたザビエルのもとに大友宗麟に書状が届く.宗麟はザビエルを気に入り,キリスト教に傾倒した.このとき,宗麟が家督を継いで1月半程度.

大内家の滅亡と九州覇者

この頃,宗麟は関係の深い大内家に弟の大友晴英を行かせるが,大内家は毛利家に攻められて滅亡する.宗麟は大内家の継承者を主張し,肥後肥前に加えて豊前,筑前,筑後を押さえ,居城を移して九州の実質的な覇者となった.これ以降,毛利元就との対立構造が鮮明となる.当時,毛利元就は60代,大友宗麟は30歳前後.

龍造寺隆信と毛利元就の二正面作戦

佐賀の龍造寺隆信を攻めるが苦戦,毛利元就と対立する尼子氏をけしかけて二正面作戦を回避,最終的には双方と和睦する.

その後,家臣の裏切りによりピンチに陥るが,立花道雪ら家臣が裏切った家臣を鎮圧して北部九州を制定した.道雪派龍造寺隆信を攻めて和睦.同時に尼子氏の遺族をけしかけて毛利を攻めさせたことにより毛利氏を筑前から駆逐することに成功した.この戦いで鉄砲に必要な火薬を宣教師に頼んだ.「毛利氏はキリスト教を弾圧しており,硝石を輸入させないように」との書状を送ったのである.

戦国時代

毛利元就が死去するとともに,同時期に室町幕府が滅亡.宗麟自身も長男に家督を譲る.ザビエルと出会って27年,宗麟は洗礼を受けてキリスト教に入信した.宗麟は戦を忌避するため,宗教に救いを求めた.洗礼名の「ドン・フランシスコ」は宗麟自身は好まなかったが,周りに対して示しがつかない,とう理由で受け入れることとなった.

島津氏との戦い

島津氏は大友氏と同じく元寇に際して九州に移る.島津義久は弟とともに薩摩と大隅を平定していた.日向の伊東氏が島津氏に敗れて宗麟に助けを求めてきたため,島津氏との戦いに出陣(道雪は猛反対).一説には日向にキリスト教王国を築こうとしたとも言われているが,実際は伊東氏を日向に戻そうとしたとされる.

が,大友氏は島津氏に大敗北する(耳側の戦い).敗れた宗麟は織田信長を頼り,周防・長門の領有まで認められるが,南の島津,西の龍造寺,東の毛利を抱えることとなる.更に,本能寺の変により信長が討たれたため頼り人物がいなくなってしまう.

同時期,龍造寺が島津氏を攻めるが敗れて龍造寺隆信が討たれる(四條畷の戦い).この戦いにより大友家・龍造寺家・島津家の均衡が崩れたため宗麟は道雪に命じて領地確保を成功させるが,道雪が病没すると島津氏は宗麟に猛攻撃を仕掛ける.岩屋城の戦いで高橋紹運の奮戦(戦死)により持ちこたえるも,島津氏との力関係は逆転する.

ピンチと最期

宗麟は島津氏に攻められ,秀吉に救援を求める.秀吉は大友家を傘下に収めることを条件により援軍を約束するが,援軍到着までに数拠点を残すのみとなる.秀吉の軍2万を派遣するが,島津氏は13000の兵で撃破して豊後府内も攻略.その後,秀吉は10万の軍を派遣し,島津氏は降伏.大友宗麟は島津氏の降伏直前に亡くなる.

その後の大友家

宗麟の息子は朝鮮出兵でやらかし,豊後一国を没収される.

その後の立花氏

秀吉に評価され,柳川を与えられる.関ヶ原で西軍に与したため没収されるも,秀忠の教育係を任されて領地を回復する.立花氏は明治時代以降,華族として活動した.

その後の龍造寺家

家臣の鍋島直茂のお陰で家を存続させるが,領地は鍋島氏が統治する.後に佐賀藩を起こすが,直茂自身は当主とならなかったという.佐賀藩は大砲の製造などで日本の近代化に貢献した.

その後の島津家

秀吉に降るが立ち退きを拒否.刀狩りを拒否.朝鮮出兵では反乱を起こす.歳久の首を献上しことを収めると小数の兵で大兵力を打ち破った.関ヶ原では西軍につくも領地は安堵される.この際も家康の要請を3年無視し続け,家康が折れたと言われる.

島津氏の財政は火の車だったが,近代化を進めたことで5000億の借金を追加.1兆25000億円の借金を250年で返すプランを独自で作成.琉球で密貿易を行い黒字化に成功した.

島津斉彬は江戸の判定を燃やし,明治維新を推し進めた.